仁藤雅夫 氏 スカパーJSAT(株)

“ゼロから作る”ことに挑戦し続けた

2019年5月号掲載

仁藤雅夫氏 スカパーJSAT(株)取締役 執行役員副社長

1989年(平成元年)にスカパーJSAT(株)(東京・港区、米倉英一社長)の前身である日本通信衛星(株)(以下JCSAT)に入社、以来30年間、衛星関連ビジネス一筋の仁藤雅夫氏。この間に立ち上がった3つの衛星会社、4つのCSデジタル放送プラットフォームは、いくつもの統合を経て、スカパーJSATの1社に集約された。この激動の変遷全てにおいて、最前線のリーダーとして活躍してきた仁藤氏に、当時の状況や心に残っているできごと、そして次世代に向けたメッセージ等を聞いた。

黎明期の試練を経て描いた衛星ビジネスの将来
日本初の民間通信衛星会社であるJCSATに入社した経緯を教えてください。

仁藤:JCSATに入社する前、8年間、三井造船(株)にいました。新規事業開発担当で、船の省エネ装置や航行支援システム等を開発していました。大体4年でひとつの新製品を立ち上げていたのですが、8年ほど経った頃、もっと違うことにチャンレジしたくなりました。その頃、とても優秀で尊敬していた先輩がJCSATに転職したことを知り、興味を持ったのがきっかけです。衛星ビジネスは“先行きはわからないが、新しくておもしろそうな世界”だと感じました。その根底には、中学2年の時に衛星中継で見て興奮した、アポロ11号による人類初の月面着陸(1969年)があったと思います。その時の新聞は今でも大切に持っています。

入社した当時、衛星ビジネスはどのような状況でしたか。

仁藤:入社したのは、89年8月1日。その年の3月にJCSATの1機目となるJCSAT-1が打ち上がり、翌90年1月に2機目を打ち上げるという、まさに黎明期でした。衛星は夢のあるビジネスですが、実際始めてみると、とても厳しいことがわかりました。当時はアナログ時代ですから、トランスポンダ(略称トラポン)1本で伝送できるのはSD1チャンネル。トラポン1本3~6億円でしたから、そう簡単に売れるはずはなく、赤字が続きました。新しいビジネスはそんなに簡単じゃない、ということをひしひしと感じましたね。
しかも、もうひとつの民間通信衛星会社、宇宙通信(株)が不運に見舞われました。1機目のスーパーバードAは、JCSAT-1の2カ月後の89年5月に打ち上げられましたが、翌90年2月23日に実施された2機目のスーパーバードBは打ち上げ失敗。さらには、同年12月23日にスーパーバードAに事故が発生し、運用停止となってしまいました。そこで、スーパーバードAのお客様を、全てJCSAT-1・2に乗せ換えることになりました。年末に近い時期でしたので、本当に大変でした。結果的に、我々にはお客様が増えましたが、喜ぶというより、必死でしたね。衛星通信の信頼性が疑問視されてしまうのをなんとか避けなくては、という思いでした。

このような状況を、仁藤さんはどのように感じられていましたか。

仁藤:折しも平成という新しい時代が始まったばかり。衛星ビジネスの黎明期に業界として最大級の試練が襲ってきたわけで、正直「これからどうなっていくのか」と不安な気持ちでした。しかし、私は企画部に所属しており、経営計画を担当していましたので、この事業をどう伸ばしていくかを考えるのが任務でした。全社的なディスカッションをしながら、将来の方向性をまとめていきました。93年に作成した経営計画はお蔵入りになってしまうのですが(この年に、3社目の通信衛星会社(株)サテライトジャパン(以下SAJAC)と合併することになったため)、衛星ビジネスの将来の方向性を打ち出しています。

その時の経営計画の内容を簡単に教えてもらえますか。

仁藤:将来像を5つ挙げています。1つ目は「キャリア(回線提供)からコミュニケーションサービスプロバイダへ」。ただ衛星回線を販売するのではなく、ワンストップショップのように全てセットアップして提供できるサービス体制にしようということ。2つ目は「ドメスティックからドメスティック&インターナショナルへ」。国内だけでなく海外展開も視野に入れる必要があるということ。3つ目は「10の4乗から10の6乗へ」。これは受信アンテナの数のことです。当時1万くらいしかなかった受信アンテナを100万単位まで増やそうということ。これは何を言っているかというと、加入者が100万レベルとなるデジタル多チャンネル放送に取り組むべきとの方向性を示しています。4つ目は「リライアブルからモストリライアブルサテライトオペレーターへ」。技術・サービスともに最も信頼できる衛星オペレーターになって、アジア太平洋地域でNo.1になろうと掲げています。5つ目は「2000年に株主公開を目指す」というもの。これは実際、そうなりましたね。こうやって振り返ると、意外に早い段階から、衛星ビジネスの将来像をある程度描けていたのかもしれません。ただ、時間がかかりました。「言うは易く行うは難し」です。