森紀元 氏 (株)シー・ティー・ワイ

常識はずれと言われても地域と「つながる」ことを大切にした

2019年5月号掲載

森 紀元氏(株)シー・ティー・ワイ 取締役名誉会長

2021年3月20日逝去されました。心よりご冥福をお祈りします。

1988年(昭和63年)6月に設立、89年(平成元年)6月に有線テレビジョン放送施設設置許可を取得し、90年(平成2年)1月に開局と、昭和から平成の過渡期に誕生した(株)シー・ティー・ワイ(三重・四日市市、渡部一貴社長、以下C T Y)。三重県四日市市・いなべ市等の約17万7,000世帯を対象に90%という高い接続率を誇る同社は、これまでに業界の常識を覆すような事業展開や一歩先んじた動きで、度々業界を驚かせてきた。その“張本人”である森紀元取締役名誉会長に、ケーブルテレビ経営への思いや未来への展望等を聞いた。

大批判を浴びた電波障害対策が“四方みな得”の「四日市方式」へ
CTY(当時の名称はケーブルテレビジョン四日市(株))は三重県初の都市型ケーブルテレビとして誕生しましたが、森さんの関わりを教えてください。

森:私は四日市生まれの四日市育ち、地元の信用金庫で社会人をスタートしましたが、バブル期の融資姿勢に疑問を感じ、勤続30年を目前に退職しました。ケーブルテレビについては、信用金庫時代に理事長から、1983年(昭和58年)に開局した愛知県半田市の(株)CAC(当時の名称シーエーティーブイ愛知(株))の話を聞いたのが最初です。
その数年後、全国各地でケーブルテレビを立ち上げる動きが起こり、四日市でも有志によるグループができ、私も参画することになりました。当時48歳です。そして、88年に会社を設立、常務取締役という名刺を持って、総務省の総合通信局(当時の名称は電気通信監理局、通称「電監(でんかん)」)に通い始めることに。とはいえ、ケーブルテレビについて何も知らなかったから、電監の課長補佐から「あんた、なんにも知らんね。全国でケーブルテレビの計画があるけれど、あんたのところが一番心配だ」と言われました(笑)。でも、その課長補佐と話しているうちに、ケーブルテレビが地域社会に必要不可欠だということがわかってきた。“四日市っ子”の私としては、地域に必要だと理解できると、だんだん力が入ってくる。そして翌89年6月には有テレ施設設置認可を得て、約半年間の準備を経て開局しました。

開局直後から、バブル期に乱立した中高層ビルの影響で、電波障害が社会問題となり、CTYが大きく関係しましたね。

森:当時、ビルの影響で「テレビが映らなくなった」と訴える市民が多かったのですが、市は「電波障害は民民の話」と言って取り合わない。そこで、私は「中高層ビルの建設を許可したのは行政でしょう。それで電波障害が起きているのに、民民の話だと言って突っぱねるのはおかしいじゃないか」と。まぁ、素人だから言えたんですが(笑)、喧々諤々やりました。そのうち、行政も理解しはじめ、四日市都市整備公社が設立され、電波障害対策に乗り出すことになった。ただ、電波障害対策用の共聴施設の整備代は、原因者であるビルの所有者が支払うのが通例でしたが、CTYが請け負う場合、都市整備公社が計算して受信者が月額300円支払うことになった。これが大問題になり、「共聴施設なら受信者の負担はゼロなのに、CTYに依頼すると毎月300円なんて、納得いかない」と袋叩き(笑)。受信者の会合にも出席しましたが、夜12時頃まで怒号が飛び交うこともありました。でも、数日経つと「CTYにお願いしたい」となる。それはなぜか。共聴施設の管理の問題で「故障した時に誰が修理するのか」という話に行き着くと、「300円でCTYがやってくれるなら、安いもんじゃないか」となるわけです。
ところが、会合での話し合いを終えて「300円で依頼を受けてきた」と報告すると、社内から猛反対に遇いました。300円という金額は都市整備公社の決定なので、変えられない。その金額で応じるかどうかが我々の判断で、私は応じることに決めたのですが、社内からは「収支が合いません。何を考えてるんですか!常務」と叱られました。さらに、電波障害対策を月300円で応じたことが記事になると、今度は業界から総スカン。「森さん、ケーブルテレビのこと知らん知らんとおっしゃるけど、知らないにもほどがある」と言われました(笑)。当時、ケーブルテレビにおける電波障害対策は、原因者から整備代として1戸16万円、加入者には負担がないことになっていました。ですので、加入者から月300円というのは全くの常識はずれだったわけです。さらに、もうひとつ批判されたのは、「CTYは都市型ケーブルテレビなのに、なんで電波障害対策をやるのか」というものでした。当時、都市型ケーブルテレビは先進的で、難視聴型ケーブルテレビは古いと思われていましたので、そういう声も多かったのです。
今でこそ笑い話ですが、この時期に一生分の大批判を浴びました(笑)。それでも、私はできるだけ多くの世帯と「つながる」ことが大切だと思っていました。それに、地域の人たちからCTYという存在を認めてもらい、信用・信頼が得られたことも事実です。
この電波障害対策は、原因者も受信者も市も、そして我々CTYも、みんなが少しずつ良くなる結果となりました。私はこのことを大岡越前の「三方一両損」をもじって、「四方みな得」と呼んでいます。成果が出るまでは批判の嵐にさらされましたが、最終的には「四日市方式」と呼ばれ、大学や官公庁、ケーブル業界からも講演依頼をいただくようになりました。