舘盛和 氏 多摩ケーブルネットワーク(株)


会社を設立し、都市型ケーブルテレビ第1号として開局されました。

舘:そうですね。設立に向けての資金調達はまず親戚や知人をあたりました。次に地元の有力者に声をかけ、10人の発起人を集めました。40~50代が中心で30代の私が最年少でした。
こうして1983年6月に会社を設立、開局申請に取りかかりました。
電波障害対策であれば、“被害者救済”という大義があるので特別な許可は要りませんが、我々は初の都市型ケーブルテレビとして収益を得ることを目的としていたので、工事ひとつやるにも申請が必要で、時間がかかるわけです。その都度、当時の郵政省(現・総務省)との交渉が発生しました。電柱共架の申請フォーマットもゼロから東京電力と作成したので大変でした。また道路占用、河川横断など建設省本省と直接交渉しました。
都市型ケーブルテレビの定義である、引き込み端子数が1万端子以上、多チャンネル、双方向という3つの要素を満たしているということで都市型の第1号として認可を受けました。会社設立から2年半ほど調整や準備に費やし、1987年4月に開局しました。

テレビの視聴環境に不自由のない中で、どのように加入営業に取り組まれましたか?

舘:テレビにお金を払うなんてとんでもない、という時代でした。既存のケーブルテレビは難視聴対策だったりしたので、営業手法がまったく参考にならなかった。セールス戦略はいろいろですが、結局のところブランド価値を磨いて、良いサービスを提供して、選んでもらうしかない。そこで、お祭りの生中継や選挙速報を始め、コミュニティチャンネルの番組制作に注力しました。