舘盛和 氏 多摩ケーブルネットワーク(株)

開局後10年間の苦難を乗り越え 質の高い収益構造にたどり着いた

2019年6月号掲載

舘 盛和氏 多摩ケーブルネットワーク(株) 代表取締役社長

多摩ケーブルネットワーク(株)(東京・青梅市)は、日本初の都市型ケーブルテレビ局として1987年(昭和62年)に開局した。サービスエリアは、羽村市、福生市、瑞穂町の一部。電波障害のない地域で、開局から10年間赤字が続き、債務超過に苦しみながらもサービス品質の向上を目指し、質の高い収益構造を生み出した。36年間にわたり同社を率いてきた舘氏に、苦節の時代を経験して得た経営哲学や今後の展望などを聞いた。

都市型ケーブルテレビ第1号として数々の困難を克服
ケーブルテレビ事業に関わるようになったきっかけを教えてください。

舘:私は1972年に大学を卒業して、ヤクルト本社に就職しました。10年近く企画や調査を担当しました。ルーティンワークがなく自由に動けたので、民間シンクタンクのプロジェクト公募に興味を持って志願し、シンクタンクの社外研究員にもなりました。ヤクルト本社に籍を置きながら、電通とか野村総研とか三菱総研の人達と交流を深めて情報交換していたとき、「アメリカでケーブルテレビっていうのが流行っているらしい。やってみたらどうだ」と言われたのがきっかけでした。

それで起業を思い立ったのですか。

舘:30歳を過ぎて、結婚して子供もいましたから、「この先ずっとサラリーマンでいいのか」と迷っていたんです。地元(青梅市)で事業をやっている親戚からは、「そろそろ帰って来い」と言われていましたし、大学時代にゼミの先生から「舘君は自分で事業をやる方が向いているね」と言われたのを思い出したりして。1980年代の日本は、経済発展を遂げていた頃でもあり、私自身も自分で何かやりたいという欲求があったんでしょう。最終的に、青梅に帰ってケーブルテレビ事業を始めることにしました。

その頃、アメリカのケーブルテレビ局を視察されたそうですね。

舘:私の高校時代の先輩がアメリカ・ルイジアナ州のラファイエットという街と縁があり、青梅市との相互交流を目指していました。当時の青梅市長がこの件に乗り気で、私は協力を求められて、地元の有力者と一緒に「青梅・ラファイエット友好協会」という民間団体を立ち上げたんです。1982年、青梅市の子供たち10数名をラファイエットにホームステイさせるため、引率者として訪米しまた。2週間ほど滞在して、そして多チャンネルのケーブルテレビを実際に体験しました。
その時に「アメリカは地方分権の国なんだなぁ」ということをつくづく実感しました。そして「自分の街を大切にする」という意識も強く、地域愛にあふれていて結束力もある。地元のマイナーリーグの野球の試合だって、地域ぐるみで応援に行くんですから。このラファイエットのように地域を大切にするという姿を見たことが、当社の在り方の根底にもつながっているような気がします。