氏本祐介 氏 (株)ジュピターテレコム

ケーブルテレビ事業を愛してもらいたい

2019年6月号掲載

氏本祐介氏(株)ジュピターテレコム 常務執行役員

(株)ジュピターテレコム(東京・千代田区、以下J:COM)の設立は1995年(平成7年)。設立から約24年でJ:COMは11社71局でケーブルテレビ事業を展開し、ネットワーク接続世帯数1,383万世帯、総加入世帯数547万5,400世帯にも及ぶ国内最大のケーブルテレビ事業者へと成長した(19年3月現在)。同時に、番組供給事業統括運営会社も統合してのメディア事業、モバイルや電力サービスなど、さまざまなサービスに着手し、現在では5サービスを提供する総合企業への変化も遂げた。1987年(昭和62年)の住友商事入社以来、今日までケーブルテレビ事業に携わり、現在J:COM常務執行役員として最前線で舵を取る氏本祐介氏に、J:COMの成長、目指す未来、ケーブルテレビへの思いを聞いた。

入社後即ケーブルテレビ事業に配属
将来のJ:COM成長のため渡米
氏本さんのケーブルテレビとの出会いは。

氏本:私は87年に住友商事に入社してすぐ、前年に創立されたばかりのニューメディア事業室(当時)に配属されました。この部署では、ケーブルテレビ事業と映像関連事業という商社にとって未知の領域への事業進出を目指していました。当時、部署には部長を含め僅か12名しかおらず、私はケーブルテレビ事業における住商初の配属新人になりましたが、個人的にはショックでした。その当時都市型ケーブルテレビはほぼ皆無で、産業としては全く成り立っていない時代ですから。J:COMがここまで成長したから良いですが、結果が出ていなかったら私は入社2、3年で路頭に迷っていたわけで、今更ながら住商も思い切ったことをしたなという感じです。ここから住商のケーブルテレビ事業の苦労の歴史がスタートするわけです(笑)。

その当時の主な仕事の内容は。

氏本:96年までの約10年間、私は主としてケーブルテレビ局のインフラ整備の仕事をしていました。出資19局(95年当時)のインフラ建設の大半は住商が請け負いましたが、日本に光同軸ハイブリッド方式(HFC)を初めて導入したのは住商であり、採用1号は杉並ケーブルテレビ(現J:COM東京 南エリア局)です。

その後渡米されたとお聞きしていますが、そのミッションは。

氏本:J:COMのオリジンは、89年(平成元年)の(株)シティケーブルビジョン府中の開業です。ここから95年のケーブルテレビ統括運営会社(MSO)、J:COM発足時までに19局まで住商は傘下局を拡大していくことになります。
しかし、ケーブル事業は出資経営だけで黒字化できるほど甘くはなく、もっとガッツリと現場に携わり、根本からやり方を変えていかなければならない危機感が住商にはありました。そんな折、92年頃に米国MSO大手のTCI(Tele-Communications International,Inc:. 現Liberty Global, Inc.)の社長を務めていたジョン・マローン氏と住商のトップが出会い、95年1月に住商60%、TCI40%の出資比率でJ:COMを設立することになります。
TCIはスコット・ヒーゲル氏をCOOとしてJ:COMに派遣し、彼がオペレーションを根底からガンガン変えていくわけですが、言語の問題も含め、新たな手法が即現場に浸透しづらい面がありました。そこで、当時のJ:COM社長であり、私をケーブルテレビ事業に導いた張本人、西村泰重さんとヒーゲル氏が、将来のJ:COM運営の中核を担うであろう若手を米国で学ばせた後に現場に投入することを決断し、私と中谷博之さん(元J:COM役員)が米国TCIのサンノゼ局に放り込まれました(笑)。同局では、営業、ネットワーク設計、幹線・宅内工事、コールセンター、経理、GMについての予算管理、あとは倉庫管理まで概ね全部門を96年6月から翌年11月までに経験しました。

その後いよいよJ:COMに異動ですね。97年11月から九州、03年10月にJ:COM東京の技術部長を経て西エリア局長、05年2月にJ:COM本体のマーケティング・営業本部長補佐 兼 営業部長になられます。

氏本:米国研修直後に配属となったJ:COM九州支社における私の最初のミッションは、当時4社あったケーブル局を束ねた日本初のケーブルテレビ専用コールセンターの設立でした。当時、J:COMにおいても複数の局を跨ぐコールセンターが未だなく、各局でそれぞれ総務部・営業部の女性が片手間に対応している状況が主流でした。これでは顧客対応もままなりませんし、効率も悪い。私が米国で勉強してきたはずのコールセンターを作りなさいとヒーゲル氏から指示されました。その後、J:COM東京に異動となり、技術責任者を経て局長に就任、さらにMSOに異動となって営業部長になった訳は、直前の局長時代に成功させた「バルク営業」という新手法を全国展開させるためです。バルク営業とは、賃貸集合住宅のオーナーと交渉し、集合住宅にケーブルテレビのネットワークを引き込み、全戸に導入するもので、目標設定からトーク手法まで、この成功例を全国に早期に広めるよう、当時のJ:COM社長である森泉知行氏から言われました。