荻野喜美雄 氏 入間ケーブルテレビ(株)


航空自衛隊入間基地と築いた信頼関係も、入間ケーブルテレビにとって大きな強みとなっている。毎年、航空自衛隊アクロバットチーム「ブルーインパルス」の飛行展示を実況するのは、グループ会社のFMチャッピーだ。
荻野:入間基地が主催する「入間基地航空祭」は、大人気のイベントです。当社グループのFMチャッピーでは、航空祭で行われる航空自衛隊アクロバットチーム「ブルーインパルス」の飛行展示の実況アナウンスを生放送しています。全国の航空自衛隊基地の中でも、基地内部の催しを実況放送できるのは、当社くらいではないでしょうか。この飛行展示の実況放送をネット配信すると、サーバーがパンクするほどアクセスが集中するのです。航空祭は、過去最多32万人が来場したほど全国からファンが訪れる人気イベントで、安全を考慮して基地には入場制限がかかります。それで、入場できない方のために、FMチャッピーでブルーインパルスをお楽しみいただけるよう、実況放送をするようになったのです。当社が基地内部への入場を許可されているのは、日頃の取材活動で基地と信頼関係を築けているから。全国でも珍しいケースだと思います。なお、入間基地内には1,300人が暮らしているのですが、このエリアはインターネットが整備されていません。地域BWAでエリアをカバーすることも大きな地域貢献になると考え、今後の展開を検討しています。
ケーブルテレビを取り巻く事業環境は年々厳しくなり、通信事業者、OTTとどのように戦うか、あるいは共存していくかに苦慮する事業者が増えている。
入間ケーブルテレビでは、どのように対策を講じていくのだろうか。

荻野:競合を恐れるとか、取り込むとか、価格競争をするとか、そういうことはあまり意識していません。我々は、「お客様の一番身近にいる存在である」という自負があります。お客様の身近なところで、最も必要とされる仕事をしていく。そのスタンスを貫く限り、絶対に負けるはずがないのです。スマート農業も発電事業も「おたすけ隊」もそうですが、大切なのは、いかに地域の人達が求めるものを提供できるかを考え続けること。確かに、テレビを視聴する時間は、若者を中心にこの先どんどん減っていくでしょう。映像を視聴するサービスは、OTTを含め、混在していますが、当社は「ケーブルテレビに加入していないと享受できないサービス」に注力し、地域に役立つビジネスを展開していきます。それを実践した事業者だけが、この業界で生き残れるのだと思います。
荻野氏の座右の銘は、「去華就実」。外見の華やかさよりも、実質を重んじる。
設立から35年近くが経過した現在、荻野氏が社員に願うこととは…。

荻野:「去華就実」は、母校である早稲田実業学校の校是です。だから、市街地に豪華な局舎などはつくりませんでした。広々とした立派な局舎をつくったら、人もモノも増え過ぎるでしょう。だから、社長室は6畳1間です。世の中は刻々と変化しています。変化への対応を怠り、自己革新が途絶えてしまえば、企業は危機に直面します。そういう危機感から、「今は破壊的イノベーションの時代だ」と唱えるようになりました。過去に蓄積した経験をベースに思考する「継続的イノベーション」では、時代の変化に追いつかない。従来の経営観では計り知れない発想を持たなければ、次なる展開が読めないのです。
社員に対して、特別な言葉をかけることはほとんどありません。ただ、毎年新年度の計画を発表する全体会議の場を設けているのですが、そこでは「会社が第二次創業期を迎えている」と伝えました。平成が終わり、当社ではスマート農業や発電事業を本格的に開始します。業界全体では、4Kや地域BWAなどのサービスも始まります。こうした情勢の中で、変化に対応していくためには、破壊的イノベーションを起こして、新たなスタートを切ること。そして新事業を発展させていかなければなりません。会社は社員のものだ、と私は考えています。当社にとって一番の財産である社員のために、利益を生み出し、臨時ボーナスや決算ボーナスというかたちで、社員に還元していきたい。旧態依然としていては立ち行かなくなりますから、焦っていろいろな策を講じているわけです。次世代を担う人達も、その考えを継承し、新しいことにチャレンジしていってほしいですね。

代表取締役社長 荻野喜美雄氏
<PROFILE>
入間ケーブルテレビ(株)代表取締役社長
瑞穂ケーブルテレビ(株)取締役会長/東松山ケーブルテレビ(株)取締役会長/ゆずの里ケーブルテレビ(株)代表取締役会長/(株)エフエム茶笛 代表取締役社長就任/(株)ICTVスマイル農場 代表取締役社長
★2020年12月 「ケーブルマン・オブ・ザ・イヤー2020」受賞

入間ケーブルテレビ(株) 代表取締役社長 荻野喜美雄氏

「この街に必要なことなら何でもやる」

1986年6月に設立した入間ケーブルテレビのスローガンは、「地域とともに、市民とともに」。埼玉県入間市の情報発信基地を目指して1990年4月に開局した同社は、テレビ、インターネット、電話の3事業を主軸とし、無線サービスや地域の安心・安全サービスを先進的に展開。最近ではスマート農業や発電事業など、新たなフィールドも開拓している。その最前線で指揮をとるのが、会社設立の中心メンバーであり、現社長の荻野喜美雄氏だ。97年から長きにわたり、社長として同社を牽引してきた荻野氏が、初めてケーブルビジネスに触れたのは80年代初頭、アメリカでのことだった。
荻野:当時、私の同級生がアメリカで起業していて、彼に会いによくロスへ行っていました。入間ケーブルテレビを設立する5~6年前の話です。そこで初めてケーブルテレビの多チャンネル放送を見て、「これは大変なシステムだ」と衝撃を受けました。それが興味を持ったきっかけです。すぐにビジネスに魅了されて、ラスベガスで開催されたケーブルショーにも2回足を運びました。そしてアメリカから帰国してすぐ、所属していた入間青年会議所(入間JC)に話を持ち込み、狭山青年会議所(狭山JC)のメンバーを巻き込んで、「入間CATV研究会」を立ち上げたのです。83年のことでした。
入間JCで共に活動していた仲間の1人、前副社長の鈴木豊士氏とは、会社立ち上げの頃から二人三脚で歩んできた。業界では誰もが認める名コンビである。
荻野:会社設立にあたり、まずは資金集めです。JC仲間や知人らを中心に、一口70万円の出資を呼びかけました。取締役就任者からは100万円ずつ、私と鈴木が150万円ずつ出資し、39人から700株、3,500万円を集め、86年6月に入間ケーブルテレビが誕生しました。鈴木と私を含め、当時のJCメンバーは30~40代が中心でしたから、まだ血気盛んですよ。会議中も意見が分かれるとテーブルをひっくり返したりしてね(笑)。これでは会社設立どころか空中分解してしまうと思い、入間市議会議長を長年務めた地元の有力者で、人望もある鹿倉貞助さんに初代社長をお願いしました。鹿倉さんが、ちょうど地元のガス会社の代表を退任されるという噂を聞きつけて、その日の夜に鈴木と2人でご自宅に直談判に行ったのです。鹿倉さんには、以降10年以上社長として入間ケーブルテレビを率いていただきました。そのおかげで、鈴木も私も業界内外を自由に動き回って、いろいろなネットワークを築くことができたのです。
鈴木とはしょっちゅうケンカしていました(笑)。思いつくとすぐ実行したい性質の私に対して、まずいつも反対するのが鈴木。でも、ただ反対するのではなくて、具体的な理由を挙げて理詰めでくるので、私は指摘された問題や課題をひとつずつ潰していくわけです。すべてクリアしたら、ようやく実行できる。だからこそ、これまで大きな失敗もせずにやってこられたのだと思います。鈴木は最初反対していても、いざ実行する段になると、「よし、ここからは俺がやろう」と言って一切を引き受け、いつしか自分の方がのめり込んでいましたね。
アメリカでの視察経験と独学による勉強で、ケーブルテレビに関する知識は十分だったのだが…。日本での事業開始は一筋縄ではいかなかった。
荻野:知識ばかりが先行してしまって、完全に勇み足でしたね。アメリカのビジネスモデルをそのまま持ってくる気になっていたので、後から苦労してしまった。まだ国内では法律も整備されていなかったので、当時の現実に見合わないことを始めようとしていたのです。
会社を設立してからは、局舎を構える土地探しに奔走しました。電波がよく受かるところでないといけない。どこに建てようか模索しながら、土地のこと、関連する法律のことなど、相当勉強しました。実は、我々が局舎を建てたのは農業振興地なのです。農業振興地というのは文字通り、国が “農用地として利用しなければならない”と定めている土地。でもケーブル事業を統括する放送法や通信法を読み解くうち、農用地から除外されるケースを見つけました。当時、全国各地に通信インフラが急ピッチで整備されていましたから、それを踏まえての法律だったのでしょう。東電やNTTが施設を建てる場合は、“宅地扱い”になるというのです。ならば我々ケーブルテレビ事業者も同様に扱ってもらえるはずだ。そう思って入間市に問い合わると、確かに我々が局舎を建てることに問題はありませんでした。そして87年、茶畑に囲まれた高倉の土地を購入したのです。高台で電波状況も最高でした。900坪1億7,100万円、当時の坪単価が19万円です。土地の半分が局舎スペース、残り半分には70万円の担保価値がつきました。まだバブル期だったので、土地を担保に銀行から融資を受けられたのです。
ときはバブル絶頂期の80年代後半。地価が高騰していたため、敢えて市の中心部から離れた茶畑に囲まれた農業振興地を選択した。この決断が、後の資金繰りで有利に働くことになる。
荻野:ケーブル事業者が農業振興地を買えるなんて、誰も知らなかったと思いますよ。あの頃は、市街地の一等地に自社ビルを建てる会社が結構多かったのです。そういう会社は地価が一番高いとき、土地に莫大な投資をしてしまったので、後になって苦労してしまった。当社は最初から一等地なんて手が出ませんでした。既に会社設立で1億5,000万円も借金があったので、土地にお金をかけていたら、事業が成り立ちませんから。それが結果的にはよかったのです。バブル期は銀行がどんどんお金を貸してくれましたが、バブルがはじけてからは一転して貸し渋りになったでしょう。いい時期に、いい場所に土地が買えました。私は家業の方でも以前から銀行と取り引きがあったので、その関係性もあって、新たに16億円の融資を受けることができました。会社の資金繰りは全て私が担当しています。後々のことを考えて、当時から当社は借金こそありましたが、社長の個人補償や担保は一切ありませんでした。
中小企業が金融機関から融資などを受けようとする場合、社長の個人保証を求められるケースが多い。しかし、荻野氏は銀行と粘り強く交渉し、「社長の個人保証・担保は一切なし」で融資を引き出すことに成功した。
荻野:創業して5~6年が経過し、まだ赤字で累積損失を計上している頃に、銀行と交渉して取り決めたのです。誰が社長になっても困らないように、という判断からです。ここでも1つ策を講じました。通常融資を受けたいとなったら、まずは取引先銀行にお願いしますよね。でも私は、近隣の銀行を全部集めて「1口100万円でもいいので株主になってほしい」と頼み、協調融資団を結成してもらったのです。そのときに、1番目の銀行、2番目の銀行、という具合に借りる順番まで決めてしまいました。バブルがはじける前だったので、銀行は喜んで了承してくれました。その直後にバブルがはじけ、どこの銀行も貸し渋り一辺倒になるのですが、最初の銀行が既に融資しているので、2番目、3番目も貸さないわけにいかなくなった(笑)。それで融資を受けられたので、何とか資金繰りがうまくいって、事業を進めるための設備投資ができたのです。
荻野氏は1944年4月生まれ。男3人兄弟の長男で、近所でも有名な腕白少年。「番長」として、周囲から一目置かれていた。子供ながらに、長男としての自覚は十分持っており、「将来は家業を継がなければならない」という運命を受け入れていた。
荻野:幼い頃からワルで有名でした(笑)。でも、弱いものいじめは絶対しなかった。反対に、弱いものいじめをする連中のことは、随分懲らしめましたよ。親父はもともと林業の職人で、製材工場と建設会社を設立して経営していました。それが1946年創業の三ケ島製材(株)ですが、現在は私が父の後を継いでいます。長男の定めと覚悟はしていたのですが、父からは「一生に一度、(家業とは)別の事業をやっていいぞ」と言われていました。その言葉が、ケーブルビジネスへの挑戦を後押ししてくれたところもあったでしょうね。今でいう“破壊的イノベーション”的な発想です。荻野家は職人の家系ですから、そこから放送事業を始める人間が出るなんて、誰も思っていなかった。祖父は、1943年に創業した(株)三ヶ島製作所で自転車ペダルを製造していました。「三ヶ島ペダル」というブランドは業界では有名で、「ツール・ド・フランス」など世界最高峰の自転車レースでも採用されています。兄弟は皆、仲がいいですよ。次男は大学教授でしたが、定年後は家業の林業をやっています。三男は銀行に長く務めていましたが、それぞれ自分の好きな道を歩んできましたね。