No.214 東北新社 創業者 植村伴次郎さんのこと

2020年3月号掲載

幻となった自伝映像

昨年90歳でこの世を去った私のメンターである(株)東北新社 創業者植村伴次郎さんを偲ぶ会の写真を頂いた。残念ながら海外におり出席は叶わなかった。
私は新卒で東北新社に入社し、CM制作部、衛星放送事業部に配属され、長い間、植村さんの元でお仕事をさせてもらった。1988年から1997年までの9年間大変お世話になった。
植村さんほど偉大な方が自伝など一切残していないのは不思議に思われるかもしれない。実は、ある日、子会社のポストプロダクション「テレビテクニカ」(現 オムニバス・ジャパン)の山下欽也社長に「私の半生を映像に記録します」と言われ、早速社長室にカメラや照明をセッティングしたところ、植村さんは「ああ、こういう照明のあて方はなっていません!」と怒り出し、撮影は一瞬にして中止となった。それ以降、人生を語る場面もなく生涯を終えられた。

植村さんの凄さ

植村さんは、その昔、東北新社を起業される前の1950年代、新橋に「COMO」というバーを経営していた。そこに、劇団四季の若手俳優たちが集っていて、その中に黒柳徹子さんもいた。植村さんは、1929年生まれなのでその当時20代である。
1950年代の後半、時代はラジオからテレビになり、そのバーに来る客の中に東映のテレビ部の渡邊亮徳さん(当時課長、のちの副社長)がいた。彼は映画会社の中の傍流だったテレビ部門の新規事業として『仮面ライダー』を手掛けヒットシリーズに育て上げ、800億円以上の利益を東映に与えることになる。それをアドバイスしたのが、植村さんだ。渡邊さんがその後1996年に東映をクビ(自分の誕生パーティに2億円かけ、それを週刊新潮に書かれて引責辞任)になった後も、個人事務所を設立してあげ、亡くなるまで終生大事にお付き合いされていた。
1960年代のテレビ業界は自社での制作能力がなかった。そこにビジネスチャンスをみた植村さんは、海外からの輸入番組に“日本語吹き替え”をつけ、「東北社」(植村さんの出身地秋田をイメージして浅利慶太さんが命名。ロゴマークの向きは秋田を指している)を設立し、それらの請負仕事をはじめた。当初はテレビ局が自社で吹き替えを行なっており、1エピソード1日のペースで収録していた。しかし、植村さんは、声優たちにギャラを2倍払うから徹夜でやってくれと、1晩で3エピソードまとめて収録し、テレビ局からの受注を得た。そして、このやり方が大成功だった。創業1961年の出来事だ。
『奥さまは魔女』『スパイ大作戦』『ララミー牧場』などの吹き替え業務は大繁盛だった。当時のテレビ編成は、1エピソード週3回リピートするほど、コンテンツが足りなかった。
のちに『サンダーバード』(だから黒柳さんが出演している)で吹き替えだけじゃなく、自ら海外から番組を輸入する“版権”ビジネスに進出した。これは、貿易自由化により大手テレビ局以外の企業も海外送金が自由化され、海外からテレビ版権を購入することができるようになったことで手掛けられたものだ。ライバル会社に「太平洋テレビジョン」という会社があったが、ハリウッドスタジオへのロイヤリティ報告を誤魔化し、倒産に追い込まれる。そこでも植村さんはハリウッド、ユダヤ人エグゼクティブから絶大の信頼を得るようになったのだ。
余談だが、植村さんは長く日本のユダヤ人協会の会長をされていた。ユダヤ人の友が亡くなると日本のような香典があり、それはイスラエルに木を植林したという証明をだすのだ。流浪の民であるユダヤ人の心の拠り所であるイスラエルへの植林は最もユダヤ人の喜ぶところであり、そんな習慣に日本人で混ぜてもらえたのも植村さんの凄さだろう。

奇想天外なエピソードの数々

さて、1970年の東北新社は従来の吹き替え事業に加え、この版権ビジネスと、その作品に関連する商品化権利の3つが収益の柱として成功し、赤坂に自社ビル(サンダーバードビルと呼ばれた)を建てるまでになったのだ。
そこに至るまでにもバー「COMO」があった新橋の周辺の土地が東急グループによる立ち退き要求があったとき、町を代表して植村さんが五島慶太さんと交渉し名を挙げた話や、船が難破し打ち上げられた海岸で宝石の密輸の取引を盗み見て仲間に入れてもらった話、有名俳優の娘だったメラニー・グリフィスがお金に困って植村さんがお小遣いを渡した話など奇想天外なエピソードが山ほどある。
児玉誉士夫、太刀川恒夫、徳間康快など昭和の怪人たちとの交友など刺激的な話をいつも聞かせてもらった。

衛星テレビに捧げた意欲

私は、1989年に打ち上げられた通信衛星を利用した衛星放送「スカイポートTV」の立ち上げ準備スタッフとして配属されることになる。それから、通信と放送の垣根の問題、デジタル放送開始に伴うソフトバンクのテレビ朝日テイクオーバー、20世紀フォックスの会長であるルパート・マードックが仕掛けたJスカイBの設立、米国ディレクT Vの日本進出など百花繚乱の多チャンネル時代を直に体験することになる。これについては、朝日新聞の政治部記者出身の山下隆一さん(当時は朝日ニュースター、現在のCSワンテンの常務)が書いた本「ザ ブレイク オブ ア スカイTV:CSメディアに賭けた男たち」に詳しく載っている。何故か福田が悪役っぽく登場する。
当時の植村さんは、衛星テレビに並々ならぬ意欲を持っており、「CMプロダクションのオヤジで終わりたくない」と話していた。最終的には非常に巧みな戦術(田中角栄から連なる竹下派との付き合いによる郵政省への働きかけ、これはまだ書けないことが多い)で、「スター・チャンネル」「スーパーチャンネル」(現スーパー! ドラマTV)「ファミリー劇場」「クラシカ・ジャパン」「囲碁・将棋チャンネル」「プレイボーイ チャンネル」など6チャンネルのオーナーになることができた。

私の経営判断は植村流

1993年頃だったか、鞄持ちでカンヌ映画祭にご一緒し、植村さんと2人でオメガの前のベンチに座って休憩していたとき、植村さんが「福田くん、私は人に使われて仕事をしたのは、米軍基地のバーテンダーやっていた時だけです。その時に兵士の腕に光っていた時計がオメガで、憧れたものです」と言われた。植村さんは、中卒で戦時中は群馬の中島飛行機(現 富士重工)の工場に学徒動員され、戦闘機をつくっていた。そのまま社会にでて以降、独自の視点でビジネスを拡大されてきた大天才である。今でも、経営判断で悩むと、植村さんの言葉がでてくる。
本当に安らかに天国でお過ごしくださいませ。


福田 淳 FUKUDA ATSUSHI
ブランド・コンサルタント
http://tabloid-007.com @fukudadesuga

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